自分の体験したこと

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ホームステイ③

 

2度目のホームステイ先

 ここも実に酷かった。1度目は、水道光熱費などの生活費をケチられたものの、食事は3食きちんと提供してもらえた。2度目は提供してもらえなかった。冷蔵庫にあるものを勝手に食べるように言われていて、調理してもらえなかった。調理は出来ないので本当に不便した。ろくに食べられず、学校では情緒不安定で、喧嘩や愚痴が多かった。他の生徒は「青いさんの場合、やっぱり1度目のホームステイが一番良かったんじゃない?」と言っていたが、1度目は生活費をケチられ馴染めず、2度目は食事を作ってもらえずやっぱり駄目だった。ろくな材料がなく、作りようがなかった。日頃から学校で2度目のホームステイも駄目、別の所を探してください、と頼んでいたが次のホームステイ先はなかった。大きな語学スクールではなく、個人で経営している小さなスクールだったので握っているホームステイ先は極めて限られていた。言い忘れてしまったが、2度目のステイ先は自室が地下室で暗く嫌な感じで馴染めなかった。学校は父親(自分より1,2年年上だった)に車で乗せてもらって行った。しかし、肝心な食事の提供がなかったのでやっぱり駄目だった。自分は自分で2度目のステイ先の不満を言い、ステイ先側も私の不満を言っていた。「ご飯の食べ過ぎ、子供たち(2人の小さな子供がいたが、子供は苦手なのでできるだけ関わらないようにしていた)と馴染めない」など。私はお金を払う立場。子供たちの機嫌を取る義理はない。このことをはっきり学校で言った。お金を払っているのに食事の提供がないことも。同じ話を午前の講師にも話した。彼女は怪訝な顔をして何か色々言っていた。食べ過ぎといっても冷蔵庫などには殆ど食べ物はなかった。沢山食べるだなんて論外だ。

 ということでアパートに移るよりしょうがなかったが、紹介されたアパートも実に酷かった。部屋にトイレ、キッチン、洗濯機などの設備がなく、必要な物は全て部屋の外にあり、共有だった。部屋、部屋の外(キッチン、洗濯場、シャワー室など)も薄暗く、嫌な感じで馴染めなかった。食材は当然無く食べ物に困った。先にも言ったが、調理が出来ない。学校と家事の両立は出来ない。パンとマーガリンだけで過ごした。2,3日ですっかり嫌になった。アパートの近くに病院があり、そこに泣きついた。「ホームステイ先を追い出され、その後別のステイ先を案内されず、アパートに追いやられた。何も食べていない。死にそう!」特に肉が恋しくてしょうがなかった。

 病院で軽い朝食を提供されしばらくベッドに横になった。残念ながら朝食なので肉がなかった。とにかく、肉、肉、肉で飢えていた。学校の責任者がやってきて「日本に帰りましょう」と言われた。その前に損害賠償をしなければならない。レンジの中は牛乳が沢山こぼれていたし、流しも詰まっている。これを処理するのにかかった費用をアパートに払わなければならない、と言われた。言語道断である。レンジの使い方が分からず、必要以上に長いこと設定し牛乳が沸騰して殆どこぼれて知らん顔したのは事実だが、流しの詰まりまで弁償するのは論外である。流しなんか全然使ったことがないのに私のせいにされてしまった。調理が出来ないのに流しなんか使うわけない。精神的にも肉体的にも疲労困憊していたので英語でそれを証明する気力がなく、流しの詰まりの直し代まで払わされる羽目になった。アパート住まいになってから学校に行けなくなった。払った授業料やホームステイ代を使い切る前にここに居られなくなってしまった。未使用分は返金されなかった。日本に帰った後、手紙で請求し、数千円程度の小切手が送られ、それを銀行に持って行ったら換金できない、と言われた。実に酷い体験だった。今度はもっと調べて(学校の規模、ホームステイ先の数や条件、周辺のアパートの数と設備など)全て納得してから行き直そうと思ったが未だにそれが実現出来ずにいる。鳥取まで自動車合宿に行ったのは、海外で足が無く不便したから。両親は反対したが強引に行った。親が反対していたので免許取得後車を貸してもらえず、そのままペーパードライバーになってしまった。元々海外渡航は反対していたので海外で足が欲しいという動機での免許取得なので両親は全く協力してくれなかった。

 余談。あともう一人行くホームステイ先行くホームステイ先に馴染めず変わってばかりの人がいた。その子(以降、Hさんと呼ぶ)は旅行会社を通してこの語学スクールに参加したので、不満を言えばすぐサッとステイ先を変えてもらえた。しかし、所詮小さな町なのでステイ先はとうとうなくなりHさんもアパートに移った。でも、私が行ったアパートよりはかなり良かった。一般的なアパートのように必要な設備は全て自室の中にあった。でも、食べ物には多少不便していたようです。学校で度々お菓子をつまんでいた。朝ご飯食べてない、と言っていた。

 余談②。授業は月曜日から金曜日の午後まであった。午後はアクティビティの時間で授業がなかった。損をした気分だった。更に悪いことには、アクティビティは午前のみの契約の人も参加出来た。それはおかしいと学校の責任者に話したら、「参加者が多い方が楽しいでしょ」と言われた。私より後から入ってきた生徒も「やっぱり午前のみの契約ほうが得だな」と言っていた。

 言い忘れてしまったが、ニュージーランドには1年滞在する予定でしたが、結局3ヶ月かそこらで帰国した。海外では車がないと何も出来ない。車が運転出来れば、どうしてもその学校、ホームステイに馴染めなければ別の街に移るだけ。事実、そうした生徒もいた。2週間とこの学校に居なかった生徒がいた。車で移動したかどうかは分からないが。下調べ不足だった。自分が車を運転出来ないなら、交通機関が発達している地域(オークランド周辺など)を選ぶべきでした。今みたいにネットが普及していなかったので下調べと言っても限度があった。今の知恵があれば、同じ国内で別の地域に移動、ということを考えたが、あのときは2度目のステイ先からずっと風をこじらせて(結構しつこい気管支炎だった)いて、しかも精神的にも追い詰められていたのでとにかく一旦実家に帰って休みたかったから別の地域に移動なんて考える余裕がなかった。この後全然海外渡航が出来ていないので、一旦向こうの病院で入院して完全に病気が治ったら別の地域に移動すれば良かったとも後悔している。