自分の体験したこと

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このブログは自分の人生の苦労話を述べる場所です。メインブログは赤文字をクリック!

このブログ(自分史)を作った目的

5,6年前に書いたファイルがあり(最近書いたのもあるが)、一部を公開しました。公開された分を読んだだけでもいかに社会不適格者か、お分かりになると思います。会社だけでなく、中高年の再就職セミナー、医療事務スクール、英会話スクール、ホームステイなど仕事場以外でもトラブルの連続でした。本当はこのブログは主治医に読んでもらいたいです。私の病状を本当に理解してもらおうと思うならこのブログを読んでもらうことです。ですが、現実的ではありません。医者が一人の患者に割く時間は限られています。少なくとも今の主治医には読んでもらえません。ですが、将来何があるか分かりません。恐らく読んでくれる医師に出会えることは無いと思いますが、念のためにこの「自分史」というブログを作りました。私の発達障害の苦労話です。

 

ホームステイ④

 

スクールの仲間たちと学校責任者

 ホームステイ①でも話したように午後はTOEICの勉強だった。その勉強に不満を持った生徒(男性)がいた。その生徒のホームステイ先は私の2度目のステイ先と同じ所でした。その生徒曰く「そんな勉強なら日本でもできる。ここに来てまでそんなことやりたくない」とのことだった。学校の責任者に何度かその不満を言っていた。確かにTOEICなら日本にいても勉強出来るけれど、中には出来ない人もいる。うちがそうである。そばに家族がいると「さっさと仕事見つけなさい」とうるさく言われたり、家事を手伝わされたりなどしっかり勉強出来ない。だから親元を離れている今のうちにTOEICを勉強したかった。その生徒は、トーキング中心の授業を望んでいた。その授業は午前でやっているだろ、と思っていた。トーキングの授業だって英会話スクールに行けば日本でもやれるでしょ。今思えば語学スクールやホームステイに無駄なお金を費やすなら、旅から旅の生活をすれば良かった。どうせ英会話の勉強をしたってネイティブのようにしゃべられるようにはならない。無意味。

 ある日、スクールの仲間全員(不参加の生徒もいたが)である男子生徒のアパートに遊びに行った。ニュージーランド人とルームメイトしていた。目的は皆で500ドルずつ出し合って夕食を食べることだった。調理は女生徒がやった。男子生徒がやらないので私は調理には参加しなかった。カレーライスを作ろうとしたが材料が足りなかった。スーパーには小さいサイズのカレールーしか売っていなかった。日本製のルーだった。人数に対してルーが足りなかった。小さいサイズなら複数個買えばいいと思ったが、多分1個しか売っていなかったのでしょう。「それなら、帰るからお金返して」と文句言ったが返してもらえなかった。帰りたくてしょうがなかったがお金を返してもらえなかったのでイヤイヤその場にいた。足りない、足りない、と揉めていたが、何とか人数分カレーライスを作った。当然少なすぎた。食事は男子生徒とそのルームメイトの分も作ってあった。私はリーダー的存在の女生徒Mさんに彼らからも500ドル徴収した? と聞いた。Mさんは「彼らの家でしょ」と言った。要するに徴収していないということだった。何か不公平に感じ、このイベントに参加して後悔した。

 例の酷いアパートを出てからバックパッカーで1泊(その日の夜中にオークランド空港に旅立ったので実際は1泊もしなかた。なのに1泊分取られた)した。数日ぶりか1週間ぶりに授業に参加した。最後の授業だった。授業後、学校の責任者にバックパッカーまで乗せていってもらうはずだったが、なかなか動いてくれなかった。その責任者を待っている間にHさん(前の記事、「2度目のステイ先」で話したホームステイ先をコロコロと変えた女の子)と、「ここは大きな語学スクールではなく、個人で経営している小さなスクールなので握っているホームステイ先は少ない」という内容をべちゃべちゃしゃべっていた。日本語でしゃべった。ようやく責任者が動いてくれようとしてくれた時、彼は少し文句を言った。うちの学校の悪口を言っていたでしょ。行く気になれなかった、と言った。私は、「えっ! 聞いていたの? 日本語で言えば分からないと思っていたのに」と言った。彼は、「そういう考えは良くないよ」と言った。学校の悪口は、責任者の奥さんが聞いていたらしい。奥さんは、「You are nasty. You can enjoy nothing.」と嫌みなことを言った。お客に対してnasty という言葉を使うとは実にけしからん! Nastyはお前らだろ! 払い込んだ授業料、ホームステイ代をネコババするほうがよっぽどnastyである。

 嫌な思いをしただけのホームステイ体験記でした。そんなことをせず、一人旅をすれば良かったのでは、という意見がありました。仰る通りです。前にも話した通り、うちの両親は度々の海外渡航に反対していた。だから、渡航できる時にできるだけ長く滞在したかった。そういうこともあってホームステイを選んだ。割安だし。払い込んだ授業料やステイ代が戻ってこなかったので結果的には少しも安くならなかったが、うまく行けば割安だった。宿泊の度にホテルに泊まっていてはお金がかかってしょうがない。同じ学校の生徒も数ヶ月だけ英会話を勉強して後は旅から旅というパターンでした。上記にも述べた通り、英会話を勉強したってどうせペラペラにはなれないし、最初から一人旅にすれば良かったと後悔しています。ホームステイが駄目という訳ではないが、対人関係が苦手という方は一人旅が一番合っているかと思います。

 当時(私が、2,30代の時)は、長期海外滞在をする人はバックパッカーに泊まっていた。通常のホテルより宿泊代が安い。あの当時で1泊3500円から4000円以内だった。しかし、学校に紹介されたアパートと同じで自室に風呂場、トイレ、キッチン、洗濯機はなく、外で共同の物を使わなければならなかった。自室を出る度にいちいち鍵を持って出なければならないし、私物も持ち歩かなければならないし、決して快適とは言えません。少々高くてもホテル住まいが一番気楽です。一般的なツアーで泊まるくらいのランクで一番安いか、中級くらいのホテルが一番かと思います。

ホームステイ③

 

2度目のホームステイ先

 ここも実に酷かった。1度目は、水道光熱費などの生活費をケチられたものの、食事は3食きちんと提供してもらえた。2度目は提供してもらえなかった。冷蔵庫にあるものを勝手に食べるように言われていて、調理してもらえなかった。調理は出来ないので本当に不便した。ろくに食べられず、学校では情緒不安定で、喧嘩や愚痴が多かった。他の生徒は「青いさんの場合、やっぱり1度目のホームステイが一番良かったんじゃない?」と言っていたが、1度目は生活費をケチられ馴染めず、2度目は食事を作ってもらえずやっぱり駄目だった。ろくな材料がなく、作りようがなかった。日頃から学校で2度目のホームステイも駄目、別の所を探してください、と頼んでいたが次のホームステイ先はなかった。大きな語学スクールではなく、個人で経営している小さなスクールだったので握っているホームステイ先は極めて限られていた。言い忘れてしまったが、2度目のステイ先は自室が地下室で暗く嫌な感じで馴染めなかった。学校は父親(自分より1,2年年上だった)に車で乗せてもらって行った。しかし、肝心な食事の提供がなかったのでやっぱり駄目だった。自分は自分で2度目のステイ先の不満を言い、ステイ先側も私の不満を言っていた。「ご飯の食べ過ぎ、子供たち(2人の小さな子供がいたが、子供は苦手なのでできるだけ関わらないようにしていた)と馴染めない」など。私はお金を払う立場。子供たちの機嫌を取る義理はない。このことをはっきり学校で言った。お金を払っているのに食事の提供がないことも。同じ話を午前の講師にも話した。彼女は怪訝な顔をして何か色々言っていた。食べ過ぎといっても冷蔵庫などには殆ど食べ物はなかった。沢山食べるだなんて論外だ。

 ということでアパートに移るよりしょうがなかったが、紹介されたアパートも実に酷かった。部屋にトイレ、キッチン、洗濯機などの設備がなく、必要な物は全て部屋の外にあり、共有だった。部屋、部屋の外(キッチン、洗濯場、シャワー室など)も薄暗く、嫌な感じで馴染めなかった。食材は当然無く食べ物に困った。先にも言ったが、調理が出来ない。学校と家事の両立は出来ない。パンとマーガリンだけで過ごした。2,3日ですっかり嫌になった。アパートの近くに病院があり、そこに泣きついた。「ホームステイ先を追い出され、その後別のステイ先を案内されず、アパートに追いやられた。何も食べていない。死にそう!」特に肉が恋しくてしょうがなかった。

 病院で軽い朝食を提供されしばらくベッドに横になった。残念ながら朝食なので肉がなかった。とにかく、肉、肉、肉で飢えていた。学校の責任者がやってきて「日本に帰りましょう」と言われた。その前に損害賠償をしなければならない。レンジの中は牛乳が沢山こぼれていたし、流しも詰まっている。これを処理するのにかかった費用をアパートに払わなければならない、と言われた。言語道断である。レンジの使い方が分からず、必要以上に長いこと設定し牛乳が沸騰して殆どこぼれて知らん顔したのは事実だが、流しの詰まりまで弁償するのは論外である。流しなんか全然使ったことがないのに私のせいにされてしまった。調理が出来ないのに流しなんか使うわけない。精神的にも肉体的にも疲労困憊していたので英語でそれを証明する気力がなく、流しの詰まりの直し代まで払わされる羽目になった。アパート住まいになってから学校に行けなくなった。払った授業料やホームステイ代を使い切る前にここに居られなくなってしまった。未使用分は返金されなかった。日本に帰った後、手紙で請求し、数千円程度の小切手が送られ、それを銀行に持って行ったら換金できない、と言われた。実に酷い体験だった。今度はもっと調べて(学校の規模、ホームステイ先の数や条件、周辺のアパートの数と設備など)全て納得してから行き直そうと思ったが未だにそれが実現出来ずにいる。鳥取まで自動車合宿に行ったのは、海外で足が無く不便したから。両親は反対したが強引に行った。親が反対していたので免許取得後車を貸してもらえず、そのままペーパードライバーになってしまった。元々海外渡航は反対していたので海外で足が欲しいという動機での免許取得なので両親は全く協力してくれなかった。

 余談。あともう一人行くホームステイ先行くホームステイ先に馴染めず変わってばかりの人がいた。その子(以降、Hさんと呼ぶ)は旅行会社を通してこの語学スクールに参加したので、不満を言えばすぐサッとステイ先を変えてもらえた。しかし、所詮小さな町なのでステイ先はとうとうなくなりHさんもアパートに移った。でも、私が行ったアパートよりはかなり良かった。一般的なアパートのように必要な設備は全て自室の中にあった。でも、食べ物には多少不便していたようです。学校で度々お菓子をつまんでいた。朝ご飯食べてない、と言っていた。

 余談②。授業は月曜日から金曜日の午後まであった。午後はアクティビティの時間で授業がなかった。損をした気分だった。更に悪いことには、アクティビティは午前のみの契約の人も参加出来た。それはおかしいと学校の責任者に話したら、「参加者が多い方が楽しいでしょ」と言われた。私より後から入ってきた生徒も「やっぱり午前のみの契約ほうが得だな」と言っていた。

 言い忘れてしまったが、ニュージーランドには1年滞在する予定でしたが、結局3ヶ月かそこらで帰国した。海外では車がないと何も出来ない。車が運転出来れば、どうしてもその学校、ホームステイに馴染めなければ別の街に移るだけ。事実、そうした生徒もいた。2週間とこの学校に居なかった生徒がいた。車で移動したかどうかは分からないが。下調べ不足だった。自分が車を運転出来ないなら、交通機関が発達している地域(オークランド周辺など)を選ぶべきでした。今みたいにネットが普及していなかったので下調べと言っても限度があった。今の知恵があれば、同じ国内で別の地域に移動、ということを考えたが、あのときは2度目のステイ先からずっと風をこじらせて(結構しつこい気管支炎だった)いて、しかも精神的にも追い詰められていたのでとにかく一旦実家に帰って休みたかったから別の地域に移動なんて考える余裕がなかった。この後全然海外渡航が出来ていないので、一旦向こうの病院で入院して完全に病気が治ったら別の地域に移動すれば良かったとも後悔している。

ホームステイ②

1度目のホームステイ先を追い出されたいきさつ

 日頃から水道光熱費についてはうるさくてしょうがなかったのでうまく行っていなかった。婆さんは日本人の金髪を嫌がっていた。ある日、病院で髪を金髪に染めた。婆さんはぐずぐずと何か言っていた。その時、婆さんはアイロンをかけていた。私は、「taste differs.(人それぞれ)と婆さんに言った。そしたら婆さんは、「Yes, taste differs.」と同じ言葉を言った。その日の晩ご飯の時、婆さんは「この家を出て行ってもらう。別のホームステイで楽しんでください。I need a break.」と言ってきた。すぐに追い出されはしなかった。

 何週間も滞在していたので、だんだん手持ち金が寂しくなってきた。母親に頼んで送ってもらおうとした。両親の金ではなく、私が日本で働いた金である。犯罪に遭った時のために全財産をニュージーランドに持って行かなかった。お金を送ってもらうには母親に連絡しなければならない。電話代を払うから電話を貸してと婆さんに頼んだら断られた。明日、学校で借りなさいと何度も言われた。1日も早くお金が必要だったので、貸し渋る婆さんが憎たらしくてしょうがなかった。どうとう我慢しきれずに大声で騒いだ。そしたら婆さんは、「前の生徒の時、5万幾らも請求書が来た!」と大声で言い返された。前の生徒(私の直前の生徒とは少し違うが)は、コレクトコールと嘘ついてしょっちゅう老夫婦の電話を使っていたらしい。そんなこと私には関係ないだろ!

 喧嘩の後、風呂に入り(湯船は絶対に使うなと言われていたがその日は使ってやった)、落ち着いた頃にリビングで爺さんと出くわした。爺さんは、「さっきのこと、明日学校の責任者に話しなさい」と言った。

 次の日、昨晩の喧嘩の話をした。学校には日頃からホームステイ先とうまく行っていないことを話していた。水道光熱費について前の生徒の時の請求書まで持ってきて文句を言われたなど。その日の授業後、すぐ別のホームステイ先に移った。

ホームステイ①

 ホームステイは2回ほど経験があるが、このブログでは主にニュージーランドでのホームステイについて述べます。

 平成10年の9月17,8日から同年の12月の途中までニュージーランドにホームステイに行った。当時、30歳だった。本当はアメリカが良かったが、ニュージーランドドルのほうが安いのでニュージーランドに行くことに決めた。地域はタウランガです。旅行会社を通さず自分で国際センターの図書館で調べて見つけた英会話学校だった。

 行ってびっくりで極めて小さな学校だった。私は午前と午後の両方の契約をした。午前は、フリートークの授業だった。午後は、TOEICの勉強だった。午後の授業は、私が行ったばかりの頃は専門の講師がいなく、学校経営者の身内が練習問題を持ってくるだけで、全然授業をしてくれなかった。不満でしょうがなかった。きちんと月謝を払っているのに全然教えてくれないので。当然、そのことについては学校の責任者(個人で経営している)に文句を言った。まだ、担当の講師を雇っていなかった。1,2週間経ってようやく専門の講師が授業をやるようになった。TOEFLのやたら難しい問題を持ってきたので、不平を言った。2,3日後、自分のレベルに合った課題にしてもらえた。小さな学校だったのでシステムが全然整っていなかった。

 ホームステイ先も不満で一杯だった。1つ目のホームステイ先は老夫婦で両方とも72歳だった。この家に行って2,3日も経たないうちから「水の使いすぎ」とぐずぐず文句を言われた。絶えずうるさかった。この家に行ったばかりの頃、婆さんは、「シャワーは1回まで、しかも夜の10時まで済ませるのが規則」と言ってきた。婆さんが寝るのにうるさいからそのような規則を設けた。毎日学校に行くのに10時までに済ませろだなんて、無茶なルールだと思った。シャワーを早めに済まさなければならなかったので、授業後、学校の仲間と遊ぶが暇十分なかった。私にだけは10時にシャワーを済まさせて、自分(老夫婦)が気に入った人を家に招待した人にはこのルールが適用されていなかった。実に不公平だ。

 ケチられたのは、水道だけでなかった。トイレットペーパー、電気代までぐずぐず言われた。ある日、婆さんが爺さんに私の悪口を話した。「5 rolls have gone! 」とわざと私に聞こえる声で騒いでいた。ある日の夜、爺さんがドアをノックしてきた。何やら訳の分からない書類を持っていた。その書類とは前の生徒の時の水道光熱費の請求書だった。それを見せてぐずぐず文句を言ってきた。私がこの家に来てから請求額が高くなったと言われた。私は、「学校に○ドル渡している。学校に言ってください。それに他の生徒はもっと水道を使っている。1日2回シャワーを浴びている生徒もいる」と言い返した。そしたら、「私は他の生徒には関心がない」と言われた。学校に幾ら幾ら払っていることに対しては、「部屋を提供し、○○を提供し・・・」と言われた。とにかくケチで嫌な老夫婦だった。

 私より後に私より数年年下のドイツ人の女性が学校にやってきた。その女性は大食らいで毎日授業の合間にリンゴ1つパクリとした。昼食の量も多く、目についてしょうがなかった。まだ、このドイツ人が来たばかりの頃はまだ1度目のホームステイ先だったので自分も昼食を作ってもらってはいたが、そのドイツ人もホームステイ先の人に弁当を作ってもらっていた。水道光熱費もケチられず、一番条件のいいホームステイ先だったので妬ましくてしょうがなかった。普段からその女性を妬んでいたので喧嘩を売ったことがあった。私は、2度目のホームステイ先では食事は一切作ってもらえなかったので毎日イライラしてしょうがなかった。ある日、ドイツ人がラジカセで音楽を聴いていてうるさかったので文句を言った。喧嘩になった。午後の講師が止めに入った。「No, fucking way! 」という言葉を使ったら、講師がマジで「この教室から出て行きなさい」と怒ってきた。いつも私だけが悪者になった。音楽を聴いて人に迷惑掛けたのは悪くないのかしら? どうせ白人だからひいきしたのでしょう。その講師も白人だった。学校側も、彼女が白人だから一番条件のいいステイ先を当てたのでしょう。他の日本人の生徒(私を含めて)より一番条件が良かった。

郵便局のパート(常用雇用)

 38歳の時のことである。

 窓口業務として入社した。窓口業務だったけれど、初めは後方で働いた(結局、窓口に出る前に離職した)。絶えず大きな声で「いらっしゃいませ!」と言わされた。これが苦痛でたまらなかった。SK社でも述べたが、私は黙々と目前の事務仕事に専念していたかった。言われた通り大きな声できちんとやっていたのに、上司に「ちゃんと声を出しなさい」と注意ばかりされた。一方、もう一人の同期のパート社員は、全然声を出していなかったのに、何も言われなかった。「不公平だ!」と腹が立ってしょうがなかった。

 自席の机の下の足元には段ボールが置いてあり、その中には厚さ2、3センチのチャック付の文具入れが10数個入っていた。この段ボールが邪魔でしょうがなかった。足を十分に伸ばせず窮屈だった。別の上司に事情を話し、これを退かせてほしいと何回か頼んだが、その度に断られた。

 引継ぎの定年間際の男性社員は全く小言を言ってこなかったが、同じ部署のCさん(私と同年代の男性社員)が色々とうるさかった。仕事にも慣れずイライラの毎日だった。ろくに足を延ばせないし、私だけが「いらっしゃいませ」と言わされるし、Cさんはうっとうしいし、もうこの職場が嫌で嫌でたまらなかった。

 ある日の退勤間際に、Cさんに、その日の業務についてごちゃごちゃ言われた。帰り間際で面倒臭かったので、適当に返答してさっさと帰ろうとしたら引き止められた。いつまでもしつこくうるさかった。とうとう我慢できなくなって、「もう、辞める!」と大声で怒鳴った。それにもかかわらず、Cさんはグズグズとうるさかったので、「辞めるから、帰る!」と騒いだ。すると、Cさんは「辞めるにしても引継ぎがあるでしょ!」と言った。「どうせ辞めるから知りません! 帰ります!」と言い張ったが、なかなか帰してもらえなかった。結局、人事責任者に呼び出されて、退職の手続きをした。2週間で離職した。退勤できたのは、退勤時刻から1時間以上過ぎた時間だった。

20代の時の会社でも帰り間際にグズグズ言われ会社の人と大喧嘩したことがあった。帰り間際はそっとしておいてほしい。

 余談。上記で自分だけが「いらっしゃいませ!」と言わされたと述べた。一番納得できなかったのは、部屋(仕事場)に入ってきたら必ず「「いらっしゃいませ!」をいいなさい、と指示されたこと。接客が仕事だから声を出すのはしょうがないにしても着席前の度に言わされるのはどうしても納得出来ない。私はトイレが近く度々離席したので余計に声を出さされた。上記でも話したが、私は黙々と目前の事務仕事に専念したい。

 余談②。人事責任者は、40代ぐらいで年賀状の仕分けのアルバイトをしたときの面接官と同じ人だった。更に言えば、「座りたければ座っていいよ」と詰め寄ってきた人と同じ人だった。47歳の時も年賀状の仕分けのアルバイトの面接に行ったが(その時は不採用だった)、面接官は同じ人だった。何年同じ部署にいるのだろう?

 余談③。発達障害の場合、環境調整で症状が和らぐとされているが、世の中自分中心には回っていない。誰も環境調整なんてしてくれない。医療事務スクール①から③、SK社、この窓口業務がいい例である。

SK社の仕事

 36歳前後の時のことである。

 2ヶ月更新のパート事務としてこの会社に入社した。業務指導担当は、私の右隣にいるMさんだった。彼女は25歳前後の女性スタッフだった。

 この会社は、しょっ中男性社員が事務所を出たり入ったりしていていた。事務スタッフは皆その度に「行ってらっしゃい」、「お帰りなさい」と言っていた。私は日頃から「頻繁に人が出たり入ったりするだけでもうっとうしいのに、そのうえ、面倒な声かけなんて、どうもならん!」と思っていた。ある日、Mさんに「皆がやっているように声かけをしなさい」と指示された。私は、「それはできない」と言って彼女の指示に従わなかった。私は黙々と目前の仕事のみに専念していたかった。

 仕事が全然覚えられなかった。ある日、電卓で売上伝票の集計をしていた。Mさんが「(計算機の設定で)こうやってやれば速くできるよ」と教えてくれた。しかし、彼女の説明が全然理解できなかった。何回教えてもらってもその意味が分からず、「分からん!」と癇癪を起した。Mさんは呆れて、「では、やれるやり方でやって下さい」と言った。

 パソコンは、専用の机があった。しかし、その机は少し狭かった。会社のパソコンはデスクトップ型で、ハードは左に配置されていた。だから、データ入力用の資料を机の上に置くのにそのハードが邪魔だった。私はCさん(データ入力で分からないことがあると、いつも彼に聞いていた)に、「このハードを右に移したい」と頼んでみたが「それはできない」と断られてしまった。とにかく、このハードが邪魔で落ち着かず仕事をやる気分になれなかった。

 ほんのちょっとした手待ち時間にあるパート事務スタッフ(Pさん)が、非常に細かいリストを持ってきて、「○○をこのリストにチェック印をつけて下さい」と指示した。具体的に何のチェックかは覚えていないけれど、とにかく細かくて面倒な仕事だった。しばらくその作業をしていて途中で嫌になってしまった。私はPさんに「この作業は難しくてできない」と言った。すると、Pさんは「でもこれ、一番簡単なことですよ!」と言った。結局、この会社は1、2週間で駄目になった。

 会社の雰囲気が合わない(頻繁な人の出入りや声かけ)、ハードが邪魔で資料を思うように置けない、などで日頃からストレスが溜まってしょうがなかった。更新、更新を続けるようなアルバイトは昇給やボーナスは期待できないので長居するメリットはない。